2014年3月29日土曜日

学力と親の収入



  小学6年と中学3年を対象に昨年4月に実施した全国学力テストで、世帯収入や保護者の学歴が高いほど成績が良いことが文部科学省の分析で分かった。また、読書や新聞を読むことが学力向上に効果的であることも示された。家庭の状況に起因する子供の学力格差の存在は教育界では指摘されてきたが、全国規模の調査結果を基に数値として裏付けられたのは初めてという。
  (平成26年3月29日(土)、毎日新聞)
 
  新聞紙面上には、グラフも載っていたが、それを見ると親の収入と学力の関係は、相関関係と言うより比例関係といった方がいいようなものだった。こうしたグラフなり情報なりを見て、親御さん方はどう思うのだろうか。
 

    この2月で、都合により止めたのですが、私も3年ほど少ない人数の子達で、たいしたことも出来なかったけれども、無料塾というのをやっていました。勉強はしたい、けれどもという人も多いのではないだろうか。

  以前通信制の高校で講師をしていたときに、私と同年代あるいはそれ以上の方々が、かなり受講生の中にいらっしゃっいました。お話を聞くと、「高校へ行きたかったが、中学を出てすぐに働きに出た。その思いをこの歳になって、果たしています」とか、あるいは、「中卒では役付にはなれないので、高卒の資格を取りに来た」などととおっしゃっていました。

    「頑張った人が報われる社会」とは言うけれども、頑張りようもない人、学ぶ機会を奪われている人がいて、「循環」とは言うけれども、どうもそうした「循環」には縁のない、別のところの「循環」があって、その「循環」の中で回っているような気がするのは私だけなのだろうか。
   

 こんな事を考えていると、この記事を思い出しました。しばらく前の記事ですが、
中日新聞社説(2013年12月16日) です。
 
 

  「みんなも同じ時代に生きていると想像してね」。地理の時間。シモ先生(43)の明るい声に励まされ、生徒たちは色鉛筆を手に、米大陸の先住民族インディアンの肖像画を描き始めた。
 
 

    北欧フィンランドの首都ヘルシンキから東へ約百三十キロ離れた地方都市、コトカ市にあるランギンコスキ中学校。教員歴十八年のシモ先生は、脳機能の障害などで読み書きが難しい生徒たちの特別支援学級を受け持つ。絵を描くのは、言葉や感情を上手に伝えられない生徒たちにとって、表現力を養う工夫でもあるのだという。
 
 

   人口約五百五十万人のフィンランドは、小国ながら二〇〇〇年以降、経済協力開発機構(OECD)加盟国を中心とする国際学習到達度調査で常に上位に位置してきた。「教育大国」を自任するのはそのためだ。応用力や読解力を養う総合学習の成果とも言われているが、エリート教育はされていない。高い学力の秘密はむしろ生徒間の学力差の小ささにある。成績下位の子どもが少ないことが水準を押し上げているのだ。
 
  この国では親の経済力に関係なく、大学まで無償で学ぶ機会が保障される。公財政支出に占める教育費は13%弱。日本の9%を上回る。一学級の人数は二十人前後で、授業に応じてアシスタントの教師が配置される。
 
 

   特別支援学級はさらに少人数で行われる。シモ先生の一人一人の力に応じたきめ細かな指導も、ハンディがある子どもをこそ手厚く支えようとするこの国の教育のあり方を表している。背景には、一人一人の学ぶ権利を大切にするという社会の合意がある。すべての子に支援を惜しまないと決めた教育が、格差の小さな学力と高い学力とを両立させている。
 
 

  日本でも習熟度別授業などで教師を増やしているケースはある。でも一学級四十人の基準は減らない。財政難を理由に教育予算が削減されるなら、今以上に学校からゆとりが奪われるだけだ。フィンランドに日本が学べることは何か。コトカ市の学校現場を訪ねながら考えた。(以上中日新聞)
 

   日本でも、学びたい人には大学まで無償で学ぶ機会が保障され、教育の機会が均等に与えられる事が出来ないものであろうか。せめて学ぶ機会が均等でなければ、公平な社会とは言えないように思われます。経済力の格差が、そのまま教育の格差になっている姿を見せつけられているように思われて仕方がない。
 そしてまた、その子が親になって、またその子が、と言う「循環」が、そこにあるように思われてしかたがない。
 
 

 発達支援の問題を日頃から考えている私は、今日のニュースや、この中日新聞の社説を通して、改めて深く考えさせられている。

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