2014年4月11日金曜日

我が子が不登校になったら 続

  不登校になったら、何をしたらいいのだろうかという視点で更に考えていきたいと思います。先回は、エネルギーを補給すると言うことと、達成感や役割取得と言う視点で考えてみました。 今回は、自尊感情と言う視点から、不登校になったらどうすればいいのかについてもう少し深めたいと思います。
 自尊感情という視点から考えると、不登校になっている児童生徒さん方のほぼ全員と言っていいと思いますが、自尊感情が低下していると思われます。自尊感情については誤解が生じやすいかもしれませんが、自己肯定感と同じような意味でここでは使っていきます。
  まず、自尊感情が高いとは、低いとはど言うことかについて述べてみたいと思います。
 
 

 自尊感情が高い子(人)は、概略的に述べますと
  ① 精神的に安定している
  ②  意欲的で根気がある
  ③  拒絶や批判を受け入れられる
  ④  他者(家族も含む)にYes・No を言える
  ⑤  自分の長所・短所を分かっている
        と言うような傾向があるように思います。
 

 また、逆に低い子(人)は、同様に
   ① 人の行動をしばしばとがめる
  ②  誰からでも好かれなければ安心しない
  ③  自分は失敗者だと思う
  ④  他人を批判する
  ⑤  イライラしやすい
  ⑥  自分に否定的で、すぐに投げ出しあきらめが早い
  ⑦ 何をしていいか分からなくなる     
 

    と言うような傾向があるように思います。
 
 

  簡単に言えば自己評価が低いと言うことで、自分で自分が好きではないと言うことになります。だからイライラもしますし、どうせだめだと思う傾向が強いですから、すぐに投げ出したり、あきらめも早くなると言うことです。また、他人も自分と同じように、私のことが嫌いだと思い込む傾向が出てきてしまいますから、人から離れていくようになります。(もちろん、元々他者との関わりが好きではなかったり興味を持たないタイプの子も居たりしますが) 
 
 逆に高い子(人)は、人からの批判や意見も受け入れやすい傾向にあります。また、自分の意見もはっきり述べられ、少々のことではひるんだりしないと言うことです。更に、自分の長所や短所が分かっていると言うことは、自己理解が高いと言うことでもり、低い子(人)は自己理解が進んでいないと言うことでもあります。
 

 いかがでしょうか。現在不登校になっている、あるいは、最近どうも元気がないなどの様子を示している子どもさん方、上記のような様子はないでしょうか。
 

  Backman ら(1977)の自尊感情と学歴の関係について調べたグラフがあります。(参考にして作成、ーーこんなにきちんと直線ではありませんが、基本的にはほぼこのようなグラフです。幸崎) 


     高│                        ・①  大学院                                
    │① ・                   ・②  4年生大学                             
         │②・                    ・③ 高校卒                                
         │③ ・                   ・④  高校中退                              
         │④ ・                                                               
         │                                                             
     低└──────────────                                      

     注) 線が引けませんでした。画像をコピーすれば良かったのですが、うまく出来ませんでした。  
    各番号ごとにほぼ直線を入れて頂ければいいかと思います。

  このグラフは、高校生の時点で自尊感情が高いと、学歴の方も高いと言うことを示しています。これは、高校生の時点で自尊感情を調べ、その人達の進路を、追跡調査したものです。 
  Backman らのこのグラフから、柏木恵子(1983)は、高校生時代の頃に高い自尊感情を持つことが、高い要求水準を持たせる、と述べています。いずれにしても、自尊感情の高さが、学歴、ひいては社会的な地位の高さと関連していることを推測させますし、自らに対する信頼が、色んな取り組みへの意欲に関わっているんだと言うことを教えてくれているように思われます。
 

  最初にも述べましたが、不登校の児童・生徒さんは、この自尊感情(自己肯定感)が低下している状態と言えます。ですから、この自尊感情を高めてあげることが、不登校への重要な応援の一つとなるように思われます。ただし、そもそも自尊感情が低い状態ですから、少々ほめたぐらいでは上昇しません。また、自己や他者に対して自信をなくし懐疑的ですから、具体的な取り組みや、事実を認めたり、ほめたりしないと、ほめていること自体に対して疑いを持ったりする傾向があります。
  私が関わった事例では、1ヶ月ぐらい立った時にお子さんから「お母さん変わった?」などと言われたりしているようです。そのくらい続けないと伝わらないと言うことだと言うことです。 中には「、何もほめることなどない。いったい何をほめたらいいのだ」とおっしゃる方もかなり見えます。そういう場合は、「ありがとう」でもいいだろうし、「おはよう」もいいだろうし、「笑顔がいいね」でもいいように思います。
 「不登校で学校も行っていないのに、なんでほめてやらないかんのだ」とおっしゃる方も見えます。しかし、そうした時にお子さん達に、大概「親は自分が学校へ行けない思いを分かってくれない」と言われたりしています。こうなると悪循環に陥ります。そこで遠回りのようですが、自尊感情(自己肯定感)=自信をつけることから始めると言うことです。
 ただし、いじめであるとか、あるいは友人とのトラブルとか、明確な理由がある場合は、その理由に対処することで、登校できたりするケースも多いようです。
 
 
 
 今回はここまでにします。

我が子が不登校になったら 続々編を書きました。併せてご覧下さい。

カウンセリングルーム 希望の翼です。

 http://tubasa-counseling.com/

2014年4月4日金曜日

青春・勉強もっと 発達障害の若者へ「大学」開講

山本奈朱香 2014年4月4日17時45分
 プリントや映像でアフリカについて学ぶ学生たち=名古屋市中川区の見晴台学園大学
 
 発達障害の若者のための学びの場が少しずつ広がっている。一般の大学に進学しても、なじめずにやめてしまう人も少なくない中、勉強からサークル活動まで楽しめるよう支援する。同世代と同じように、青春を味わってほしい――。保護者や指導者らの願いが背を押している。
 「なぜマンデラさんは投獄されたのか。みんなで考えてみましょう」
 名古屋市中川区のビルの1室に昨年秋、見晴台(みはらしだい)学園大学教養学部現代教養学科が開校した。3月7日、「世界の人々と文化」の講義をのぞくと、4人の学生がアフリカについて学んでいた。
 
                
   以上 朝日新聞 平成26年4月4日(金)

 学びの機会が広がってきています。差別がなく、誰でもが学びたい時に、学びたいことを学べる機会や場所が、多くなることを願っています。

2014年3月29日土曜日

学力と親の収入



  小学6年と中学3年を対象に昨年4月に実施した全国学力テストで、世帯収入や保護者の学歴が高いほど成績が良いことが文部科学省の分析で分かった。また、読書や新聞を読むことが学力向上に効果的であることも示された。家庭の状況に起因する子供の学力格差の存在は教育界では指摘されてきたが、全国規模の調査結果を基に数値として裏付けられたのは初めてという。
  (平成26年3月29日(土)、毎日新聞)
 
  新聞紙面上には、グラフも載っていたが、それを見ると親の収入と学力の関係は、相関関係と言うより比例関係といった方がいいようなものだった。こうしたグラフなり情報なりを見て、親御さん方はどう思うのだろうか。
 

    この2月で、都合により止めたのですが、私も3年ほど少ない人数の子達で、たいしたことも出来なかったけれども、無料塾というのをやっていました。勉強はしたい、けれどもという人も多いのではないだろうか。

  以前通信制の高校で講師をしていたときに、私と同年代あるいはそれ以上の方々が、かなり受講生の中にいらっしゃっいました。お話を聞くと、「高校へ行きたかったが、中学を出てすぐに働きに出た。その思いをこの歳になって、果たしています」とか、あるいは、「中卒では役付にはなれないので、高卒の資格を取りに来た」などととおっしゃっていました。

    「頑張った人が報われる社会」とは言うけれども、頑張りようもない人、学ぶ機会を奪われている人がいて、「循環」とは言うけれども、どうもそうした「循環」には縁のない、別のところの「循環」があって、その「循環」の中で回っているような気がするのは私だけなのだろうか。
   

 こんな事を考えていると、この記事を思い出しました。しばらく前の記事ですが、
中日新聞社説(2013年12月16日) です。
 
 

  「みんなも同じ時代に生きていると想像してね」。地理の時間。シモ先生(43)の明るい声に励まされ、生徒たちは色鉛筆を手に、米大陸の先住民族インディアンの肖像画を描き始めた。
 
 

    北欧フィンランドの首都ヘルシンキから東へ約百三十キロ離れた地方都市、コトカ市にあるランギンコスキ中学校。教員歴十八年のシモ先生は、脳機能の障害などで読み書きが難しい生徒たちの特別支援学級を受け持つ。絵を描くのは、言葉や感情を上手に伝えられない生徒たちにとって、表現力を養う工夫でもあるのだという。
 
 

   人口約五百五十万人のフィンランドは、小国ながら二〇〇〇年以降、経済協力開発機構(OECD)加盟国を中心とする国際学習到達度調査で常に上位に位置してきた。「教育大国」を自任するのはそのためだ。応用力や読解力を養う総合学習の成果とも言われているが、エリート教育はされていない。高い学力の秘密はむしろ生徒間の学力差の小ささにある。成績下位の子どもが少ないことが水準を押し上げているのだ。
 
  この国では親の経済力に関係なく、大学まで無償で学ぶ機会が保障される。公財政支出に占める教育費は13%弱。日本の9%を上回る。一学級の人数は二十人前後で、授業に応じてアシスタントの教師が配置される。
 
 

   特別支援学級はさらに少人数で行われる。シモ先生の一人一人の力に応じたきめ細かな指導も、ハンディがある子どもをこそ手厚く支えようとするこの国の教育のあり方を表している。背景には、一人一人の学ぶ権利を大切にするという社会の合意がある。すべての子に支援を惜しまないと決めた教育が、格差の小さな学力と高い学力とを両立させている。
 
 

  日本でも習熟度別授業などで教師を増やしているケースはある。でも一学級四十人の基準は減らない。財政難を理由に教育予算が削減されるなら、今以上に学校からゆとりが奪われるだけだ。フィンランドに日本が学べることは何か。コトカ市の学校現場を訪ねながら考えた。(以上中日新聞)
 

   日本でも、学びたい人には大学まで無償で学ぶ機会が保障され、教育の機会が均等に与えられる事が出来ないものであろうか。せめて学ぶ機会が均等でなければ、公平な社会とは言えないように思われます。経済力の格差が、そのまま教育の格差になっている姿を見せつけられているように思われて仕方がない。
 そしてまた、その子が親になって、またその子が、と言う「循環」が、そこにあるように思われてしかたがない。
 
 

 発達支援の問題を日頃から考えている私は、今日のニュースや、この中日新聞の社説を通して、改めて深く考えさせられている。

米国の子どもの68人に1人が自閉症、前回調査より3割増

【AFP=時事】米疾病対策センター(Centers for Disease Control and Prevention、CDC)は27日、米国の子どもの68人に1人が自閉症を持っており、2012年に発表された前回の推計より30%増加していると発表した。
 

  CDCが発表した米国の最新データは「自閉症と高いIQ(知能指数)を持つ子どもの割合は増加傾向にある」ことを示していると、CDCは声明で指摘している。
 前回の調査では、発達障害の1つである自閉症スペクトラム障害(ASD)を持つ米国の子どもは88人に1人の割合であるとされていた。今回の調査結果は、2010年に米国内11か所で行われた8歳児の診断の結果に基づいている。
 

  自閉症の有病率は州によって大きく異なり、アラバマ(Alabama)州では175人に1人だが、ニュージャージー(New Jersey)州では45人に1人だった。
 また、前回に引き続き今回のデータも、男児の自閉症の発生率は女児の5倍であることを示している。自閉症と診断される割合は、女児は189人に1人なのに対し、男児は42人に1人となっている。
 

  自閉症の子どもが増加した理由は不明だが、CDCによると、ASDの診断に用いられた基準とデータの収集に用いられた手法は前回と同じだという。米国小児科学会(American Academy of Pediatrics、AAP)は発表した声明の中で、早期発見と介入方法の改善が「急務」であることをCDCの報告書は示していると述べている。


【翻訳編集】AFPBB News
記事の著作権は株式会社クリエイティヴ・リンクに属します。
日本はどうなのでしょうか。

2014年3月9日日曜日

発達障害抱える生徒の高校進学(通信制)

 中学校生で、不登校の生徒さん、親御さんが、やはり一番気にしていることは、進学のことではないかと思います。新聞の中に、参考になるような記事がありましたので紹介したいと思います。

産経新聞
2014.2.27 10:29 (1/3ページ)

 明蓬館高校の特別支援教育センターでは、個々の発達障害に応じた支援を行う。控室(奥)に常駐する教員に自身で指導を求める行動も生徒にとっての学びになる=東京都品川区
 学習障害(LD)や注意欠如・多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラムと診断され、発達障害を抱えるとされる生徒の受け入れ体制を整えた通信制高校がある。将来の自立へ向け、学ばせたいという親の思いをくみながら高校卒業を目指すという。(日野稚子)

個別の指導計画

 周囲に気を使わずに済むように衝立の付いた机に置いたノートパソコンで自習する生徒、隣接のオープンスペースで教員と向かい合って話をする生徒-。内閣府認定特区高校の明蓬館高校(福岡県川崎町)の特別支援教育センター(SNEC、東京都品川区)での様子は民間の自習室といった雰囲気だ。発達障害を抱える生徒だが、「単位取得のための課題提出が終わり、みんな落ち着いている」と校長兼同センター長の日野公三さんは目を細める。

 平成21年4月に開校した同校はインターネットを通じて授業を配信、生徒は授業を受けて日々の課題を出しながら単位取得を目指す。在籍する生徒は382人。発達障害の生徒を受け入れるのが特徴で、25年4月にSNECを開設した。

 発達障害の子供たちは、小中学校では特別支援学級へ通うなどして障害に応じた指導を受ける。しかし、「複数の生徒がいる教室に入るのが嫌とか、光や音に過敏になるなど、発達障害の影響はさまざま。こうした子供は特別支援学級に行っても落ち着いて勉強できず、勉強の仕方そのものを知らずにいる」(日野さん)。

 また、情動などから発達障害を疑っても学力に問題がないことから、子供自身や親が診断を拒否するなどして適切な対応が取られない場合もある。こうした生徒が中高生になり、鬱症状や引きこもり、摂食障害や暴力行為などの反社会的行動などの二次障害を起こし、発達障害を周囲が認識することも多いという。

 三重県にも通信制・定時制の高校があります。私自身、その一つ、県立北星高校で講師をやっていました。この新聞記事のようなインターネットを使っての授業ではありませんが、スクールカウンセラーとして関わった生徒さん方も進学され、それぞれに、エンジョイしているように思われます。
  自由度が高く、それぞれのペースで学習することが出来るので、発達に課題を持って見える方々には、特に受け入れやすいのではと思われます。

2014年2月17日月曜日

我が子が 不登校になったら

 不登校の児童・生徒の支援を考える際によく使われる表現に「不登校には時薬が効く」とか、「エネルギーがたまるのを待つ」とかがあります。
 
 

 こうした表現、考え方にももちろん一理はあります。これらの考え方の根底にあるのは、自分でものを考え成長する力があるのだろうから、それを信じてじっくり待ちましょう。あるいは、精神的に疲れているのだから、少し時間をおいて、癒やされるのを待ってあげようと言う思いです。そして、そうしているうちにまた元気ができてきて、つまりエネルギーがたまって、回復すると言う考えです。
  しかし、私は、スクールカウンセラーとして、あるいは、いろんな悩みを持っておられる方々と接することで、この考え方に疑問を持つようになってきています。と言うより待っていてはいけないのではないかと考えています。
 
 

 まず、不登校になっている児童生徒に、発達的な課題を持っているケースがままあります。こうした場合、例えば、心の理論であるとか、比喩・皮肉が理解できないなどの問題があったりすると、そのまま待っているだけでは、いっこうにエネルギーがたまってこないように思えます。相手が言っている言葉の裏表が理解できない状態では、実は本人には自覚がない場合が多かったりするのですが、当然言葉の行き違いが起こったりします。
 また、発達的な課題を抱えていて、本人がどうしていいか分からない状態の児童生徒さんもかなり居るように思いますし、そうした場合は往々にして、親御さん方々も、どう接していいか分からなかったりして、親子の関係が悪化し、悪循環を起こしたりするケースも多いように思われます。能力が高くて、成績もいい方の場合は、なおさらこじれる場合もあるように思われます。これが出来るのになぜこれが出来ないのか、それが不思議でならない。そうした状況を受け入れられないことも多々あるように思います。かといって、待てば改善されるかというとそうではないように思うのです。どうしていいか分からないときに、エネルギーがたまるのを待つというのは、果たしてどういうことだと言うことになりかねない。
 

 もちろん発達的な課題に対処するには、それなりの知見が必要かも知れません。しかし、かといって、では待つのか、何もしなくてもいいのかと言う思いを持っておられる親御さんも多いのではないかと思われます。
 
 

 ここでは、発達的課題があろうがなかろうが、まずやれることはないだろうかと言うことを考えてみたいと思います。
 

 それで、まず、最初にエネルギーとはどのようなものかと考えてみます。意欲がない、やる気がない状態が、エネルギーがない状態と考えてみます。そうすると、その正体は、例えば、セロトニンやドーパミンなどのような脳内の神経伝達物質と考えることが出来るのではないかと思います。セロトニンやドーパミンは、意欲であったり、快感を感じさせたりするものです。とすると、そうした物質は、例えば朝日を浴びたり、散歩したり、運動したりすることで出てくると言われています。散歩が可能なら、自転車に乗っての運動などもかなり有効な方法のようです。
 そういうことでセロトニンやドーパミンなどが出てくる。つまり、意欲ややる気が出てくるとすれば、「時薬」より「単なる見守り」より、朝日を浴びるようにする、散歩に出かける、自転車に乗るなどの方がいいのではないかと考えてしまいます。また、散歩をしながら、徐々にでも、活動の範囲・種類を増やす方が理にかなっていると思われます。そして少しずつでも、学校の方へ近づくことも視野に入れたり、また、買い物などをすることで、家族の中での役割を果たすことも大きな意味があるように思われます。
 
 

 また、森田直樹氏は「不登校は99%解決する」の中で1日に3つ以上ほめることが解決の方法と述べています。これも実は、エネルギー論の一つです。が、褒めることによって、セロトニンが出るだろうし、また、自尊感情が高まり、行動への意欲が促進されると思われます。従って、「時」を待つ方法とは全く異なり、積極的に働きかけてエネルギーを補給する方法かと思われます。また、行動療法的にも意味があるかと思います。
 
 有田秀穂氏によれば、リズム運動が、セロトニン神経を鍛えると述べています。その中には、上記のもの以外にチューインガムを噛むことも入っています。もちろんご飯をしっかり噛むことも含まれます。氏は他に呼吸法なども効果ありとデータを示しています。もちろん不登校の児童生徒に呼吸法がいいからと言って、いきなりやることはあまり現実的ではないかも知れません。
 
 また、家の手伝いなどもとてもいい取り組みと思われます。例えば、おすすめは食事を作ることです。これには、まずプランニングをするという側面があります。大根を切ることは、当然その先に味噌汁であるとか、あるいはぶり大根なら、ぶり大根がイメージされているはずです。つまりメタ認知(自分が何をどう理解しているかについての理解)を鍛えることにもなると思われます。イメージ化の効果も期待できそうです。味噌汁ができあがれば、達成感もあります。もちろん本格的なものを作ることになれば、調べたり買い物をしたりという新たな活動へと幅も広がります。更に、出来た料理を家族が味わって「おいしい」の一言もあれば、充実感や存在感も生まれます。共感性にも効果がありそうです。そうしたことで、また、人と共にあることの充足感も生まれるように思われます。人と交わることのうれしさや、面白さを少しでも多くを体験することは、学校や社会へ出るモチベーションを高めるためには、どうしても必要なことのように思われます。
 当然、役割取得能力を高めるためにも有効のように思われます。他者の視点に立ってものを見、考えることも体験できるように思われます。食事を作る場合は、主に母親の立場であったりします。
  もちろん、お掃除であったり、お風呂当番だったり、それぞれの事情や本人の思いの中で取り組むことはその通りですが。
 
 不登校になったときに家族は何が出来るかと言うことで少し書いてみました。何かのお役に少しでも立てればと思います。

     この話の続編として、「我が子が不登校になったら 続」もアップしてあります。そちらの方も     読み合わせて下されば幸いです。

    我が子が不登校になったら 続々編も書きました。併せてお読み下さい。

カウンセリングルーム希望の翼
tubasa-counseling.com/


参考文献
   有田秀穂  セロトニン欠乏脳    日本放送出版協会
   森田直樹  不登校は99%解決する

2014年1月27日月曜日

色覚の問題

  1月27日(月)の日経新聞に色覚の問題の記事がありました。色覚異常の有無についての検査は、現在では行われてはいないが、以前は各学校で行われていた。私自身も検査者として対応した経験もありました。
 また、実のところ、私自身に色覚の異常があり、赤緑色盲という診断を受けています。そのために理科大好きさんだったのに、私は文化系への進学を余儀なくされました。そして国語の教師になった次第です。国語の教師をして良かったとは思いましたし、これはこれでとても面白かった。けれども、やはり好きであることを捨てきれずに、アマチュア無線をしたり、気象予報士の試験に2回も挑戦したりもしました。
  しばらく前に、理科に一番近い文系として心理学者になった人のことが話題となった。彼もまた色覚に異常があったようです。もちろん私は学者と言うことでもないし、理科に一番近いからと言って心理学を学んだわけでもないのです。が、もちろんその考え方や、とらえ方が、自然科学的と言うことも私を引きつけたことも事実ではあります。

  話を日経の記事の方に戻しますと、色覚検査は、その結果次第では、その人の人生を大きく左右するものであることは確かです。現在は私たちの時代とは異なり、進路や就労にはさほどの支障はないようですが、やはり大きな影響を受けることは間違いないように思います。もちろん差別などあってはならないことは言うまでもないことですが。
  

  しかし、私がここで述べたいことは、自己理解です。日経にも書かれていたように、色覚の検査がないために、本人自身もそうした自分の特性についての理解がなされていないことがあるように思われます。むろん周囲の者もしかりではないかと思います。自分でも自覚していないし、周りは言ってもらわなければ、もちろん分かりようもない。
  更には、検査がないことで、私が懸念することは、社会の中にも、そうした色覚に問題を抱えている人がいることすら、もはや忘れ去られているようにさえ思われます。
  
  私は学生時代には、黒板に赤いチョークで書かれたりすると、更には、それに光が当たったりすると、もうお手上げで、字が見えなかった。日経によると、女性は少ないようですが、男性は20人に一人いるようです。つまり、クラスに一人や二人はいると言うことになります。貴方の周りにもいるわけでして。
  日経によれば、ある介護施設で、高齢者の顔色が分からない従業員がいて、それで眼科に行くように進められた方の例が書かれていました。こうした実社会に出て、初めて自分の特性に気がつく場合もの多々あるように思われます。
  自分の特性、この場合はあまりいい特性とは言えないかもしれないが、しかし、そのことを知ることで、その時は辛いけれども、そしてその時期も重要ではあるけれども、自らの特性に合った方向で進路の選択が出来るのではないかと、つい思うのです。それは周囲の者の、あるいは社会のあり方のためにも必要なことのなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

  色覚に問題がある私の経験の中にも「エ、!?」とか「何で!?」と思うような経験がいろいろあります。が、先の私のブログにも書きましたが、発達の問題を抱えている人の中にはもっともっと「エ、!?」とか「何で!?」と思うような経験があるように思われます。それは周囲の者にとっても同じようにあるのではと推測します。私の場合は人から教えてもらって、「へえーそんな色だったんだ」と思うことが多々あります。発達の問題を抱えている人の場合も、お互いが教え合って、初めて「そういうことか」と思うようなことが多々あるように思われます。

  しかし、私の場合もおそらく検査をやっていなければ、何ら自覚もなく、「何かおかしいな」と思いながら、違和感を感じながら、生活しているのかなと思います。それは色覚の問題に限らず、発達の問題を抱えている方々にも、同様だと思われます。
 もちろん、そのような問題があろうがなかろうが、結局は人はお互いが、わかり合うためには「語り合うなり」しないといけないことであるように思います。それが検査やアセスメントのを介在させるか否かの違いがあるかもしれませんが。
  だから、検査やアセスメントは、私の意見としてはやはり必要なように思うのですがいかがなのものでしょうか。
 
 

2014年1月26日日曜日

発達の問題とアセスメント

 自閉症スペクトラム障害の問題はよく言われるように①コミュニケーション②社会性③想像性 の問題ですが、実はその根底に、認知・言語、感覚・知覚の問題がある場合が多いようです。従って、情緒や対人関係にのみ焦点を当ててアプローチしようとしてもうまくいかない場合が多かったりします。
  例えば、学校なんかでは、生徒指導や生活指導とかで、問題を起こした児童生徒に対しての指導として、種々の取り組みが行われます。しかし、この指導が、なかなか通らないと言ったことがしばしばあったりします。勉強ができるのに、能力が高いのに、なぜと思われるケースもよく見受けられます。このような場合は、認知や感覚・知覚に問題がないかのアセスメントをする必要があるように思います。認知や感覚・知覚の過敏といった問題が、実は本人の困り感に直結している場合が多く、また、本人自身もこれを理解していないケースも多いのです。
 事例で考えてみますと、ある中学生の女子生徒で、不登校で、1週間も2週間もお風呂に入らないし、どうもおかしいと言うことでしたが、よくよく聞いてみると、過敏性があって、どうにも入浴は嫌だと言うことでした。一般的には、お風呂は本当に気持ちのいいもので、疲れもとれるし癒やされる。だから、なぜ入らないのだと言うことになるのですが、本人にとっては苦痛そのもののようでした。
 また、他の事例で考えますと、ある方は「念」の字を書き写すのに、何回も何回も見ながら、少しずつ書き足して、書き足しして、書き写しの課題を完成させました。ちなみにこの方は、全体視知覚の課題に関しては、満点でした。細かい細部の視知覚、細部視知覚に関してはかなり問題を抱えているようですが、全体視知覚に関しては、問題ないと言うことです。
 全体視知覚に問題があると、心の理論の獲得、つまり対人関係に問題を抱えたりするケースが多くなってきます。反対に、細部知覚に問題を抱えると、文字や数概念の形成が弱く、文字は読めても文章理解や算数、数学の学習に困難を示す場合が多いようです。
 もう少し付け加えて言いますと、同じようにアセスメントした方に、四十代の方が見えますが、この方は、全体知覚の問題を見事に外していました。対人関係のトラブルを抱え、悩んでおられます。おそらく、この方は長い間、このようなものの見方をしていたと思われます。私たちの情報の多くは、目と耳から獲得します。もちろん舌であったり、皮膚であったり鼻であったりもしますが。いずれにしても、そうした情報の入力に偏りがあったとすれば、必然的に、ものの見方も影響を受けると思われます。
 お子さん方の中には、集団から外れてしまい、活動ができないと言う問題がある方もいますが、そうした方には、聴覚の過敏さや集団遊びのルールが難しくて理解できないなどの問題を抱えていたり、刺激に振り回されやすいと言った問題があったりします。
 また、LDの方の特徴の、いわゆるだらしなさの問題は、運動協調障害による不器用さのためだったりする場合があります。児童生徒さんが、だらしない形で授業を受けていたりすると、当然先生方や親御さんは指導します。それは至極当たり前のことですし、他の生徒さんの手前もあります。ところが、本人にはそれがなかなかできなかったりします。「母が言っていることは分かる。でも、できない。それが悔しい。」と、文章に書いている方が見えました。こうした場合、先ほども書きましたが、「本人自身にもなぜなのか分からない」ケースも多いように思います。
 本人さんが分かっているつもり、分かるだろうと言うことで、私自身が過重な負担を強いてしまったケースもかなりあるように思います。誠に申し訳ないことです。
 まとめて言えば、やはり一人一人のアセスメントを丁寧に行う。また、一人一人の思いを丁寧に聞くと言うことが大切なんだと言うことを、日頃のカウンセリングを通して、つくづく思うところです。   

2014年1月4日土曜日

入学試験の記事です

パソコン使用 入試で配慮
 「大学全入」時代の到来で入学生が多様化し、知的な発達の遅れはないが、学習や行動面で困難がある発達障害の大学生が増えてきた。
 高校まで特別支援教育で一人ひとりに応じたサポートを受けてきた、こうした学生を、大学でどう支援するか。現状と課題を探った。
「画期的ケース」
 大学入試での配慮が、発達障害の学生の未来を開いたケースがある。
 今月6日、鳥取大(鳥取市)の演習室で行われた「地域政策学ゼミ2」の授業。「憲法9条は他国にとっても戦争抑止力になるのではないか」と男子学生が発言すると、議論が一気にヒートアップした。
 問題提起したのは、地域学部地域政策学科2年の斉藤真拓まひろさん(22)。斉藤さんは発達障害の一種、アスペルガー症候群だ。人間関係を築いたり、曖昧な表現を理解したりするのが苦手。聴覚過敏でもあり、雑音を減らす機能があるヘッドホンを授業中でも欠かせない。
 以前から数学が大好きだった。「数式の無駄のなさと機能美」にひかれた。特別支援学校高等部2年のとき、教師から「大学で勉強した方がいい」と助言を受けたのをきっかけに、進学を目指すように。しかし、受験の際に最大のネックとなったのは、「書字障害」があることだった。
 文章の読解力は人並み以上だが、文字を書くのに困難を伴う。「漢字は小学2年生レベル」と診断を受けたが、パソコンのワープロ機能を使えば、難しい文章でもすらすらと書ける。障害や病気を抱えた若者の進学を支援するプログラムに参加し、地元の同大のAO(アドミッション・オフィス)入試を受けることを決めた。2011年秋の試験では小論文が課されたが、パソコン使用を認めるよう診断書などを添えて申請した。
 パソコン使用の申請は、同大にとっても初めてのケースだった。ワープロの漢字変換機能を使えば誤字脱字が減り、他の受験生との不公平を生みかねない。一方で、障害への合理的配慮という側面に立てば、認めるべきだとの意見も出た。
 「例えば、手が動かせない障害がある受験生がいれば、代筆での受験もありえる。能力がある受験生への門戸を、手書きという方法にこだわって遮断してしまう方が問題が大きいとの結論に達した」。藤田安一・同学科長(61)はそう説明する。
 斉藤さんを支援した近藤武夫・東京大先端科学技術研究センター准教授(37)によると、入試でのパソコン使用は身体障害者で前例があるが、発達障害者に対して認められたのは初めてという。「手書きかワープロかという表現手法よりも、頭の中にある考えを論理的に表現できるかどうかをみた鳥取大学の判断は、発達障害者への合理的配慮を示したもので、画期的なケースだ」と評価する。
大学院目指す
 斉藤さんは小論文に加え、個人面接、集団討論でも上位の成績で合格。今は大学院進学を目指し、充実したキャンパスライフを送る。「日本では障害者の社会進出は、人権面ばかりから論じられてきた。統計学などを用いながら、経済効果という観点からその重要性を行政に働きかけられる研究者になりたい」
 斉藤さんの入試の際に試験官を務め、今は指導役となる相沢直子准教授(47)は「論理的思考力に優れ、いつも論点となるテーマを提示してくれる。学ぶ意欲も高く、他の学生にも刺激になっている」と話す。
診断ある学生 前年比394人増
 日本学生支援機構の調べでは、2012年5月1日現在で発達障害の診断がある大学生は1573人(前年比394人増)だった。大学から何らかの支援を受ける学生は、診断書がない者を含めると3508人(同590人増)。支援を申し出ていないケースも多いと推測されている。
 11年の大学入試センター試験から、発達障害の人も試験時間延長などの特別措置を申請できるようになったが、パソコン使用は含まれていない。また、16年4月からは「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」が施行され、障害学生への差別禁止と合理的配慮の提供が、国公立大では義務化、私立大では努力義務化されることになり、支援態勢整備が急がれている。

(2013年12月27日  読売新聞)

 発達に偏りがあったりしても、才能一杯の方々が見えます。いろいろな取り組みがどんどん行われるといいですね。

障害者のトラブル時に支援者育成 滋賀県での取り組み

障害者のトラブル時に支援者育成 湖国の福祉関係者ら
                                     京都新聞 2013年12月31 

 知的障害や発達障害がある人が、犯罪につながるトラブルを起こしたり、警察に逮捕された場合に福祉の支援体制を整える「トラブルシューター」の育成に滋賀県内の福祉関係者らが取り組んでいる。障害がある人たちは十分な意思疎通ができず、周りの障害への理解不足から誤解されるケースがあるといい「障害の特性に対する理解を広げたい」としている。

 障害者福祉施設「大津市立やまびこ総合支援センター」によると、障害がある人たちは障害の特性で、強いこだわりや周りとコミュニケーションがうまく取れないことがあるという。そのため、じっと人を見つめたり、いきなり人の物に触るなどしてしまい、警察から注意を受けたり、逮捕されることがあるという。
 

 トラブルシューターは、障害者の権利擁護活動をするNPO法人「PandA-J」(東京都)が考案。障害がある人たちがトラブルを起こしたり逮捕された時に、警察や被害者らに障害の特性を説明し、理解を求める。その後、トラブルや事件が起きないように、福祉支援体制や生活環境を整える。同NPOの養成セミナーを受講すれば修了証がもらえ、トラブルシューターと認定される。
 

 滋賀県内では2011年4月に社会福祉士や弁護士、臨床心理士ら十数人が集まって勉強会を発足させた。11月には大津市内で同NPOの養成セミナーを開き、約60人が参加。刑事手続きについて弁護士から説明を受け、精神科医からは罪を犯した障害者の特徴について話を聞いた。
 
 

 取り組みを広げているやまびこ総合支援センターの相談員越野緑さん(38)は「事案が起きた時にすぐに動けるネットワーク体制を作りたい。行政関係者や企業など障害者に関わりのある幅広い人たちに参加してほしい」と話している。

 
 このような取り組みが、各地に広がるといいですね。支援と言うより、お互いがお互いの関わり合いの中で、平等な立場で、人として。

私とは

「関係の総和」である。

確かにと、思った記述があったので、少し考えてみました。

 自己紹介をするときに普通は自分は何年生まれであるとか、どこそこに住んでいるとかを言ったりする。しかし、この場合「自分はどんな人間なのか」と言う本質までを語ってはいない。極めて表面的なことを言ったりしているに過ぎない。

 かといって、では「私の本質」とは何かと考えて見ると、実は、私が語ったりしている「私」は、「私が認識している私」に過ぎないし、その「私」が正確な「私」かどうか分からないと内山節は述べている。

 確かにその通りだと思う。周囲が見ている「自分」の評価は往々にして自分自身のそれと違ったりする。
 事実、他者の私の幼い頃への評価は、「私が認識している私」とはかなり異なっていることがあるる。小学生時代の同窓会に行って言われることは、「落ち着かない子やったわ」だ。私は、「へえ、そういうふうにみんな見ていたんだ」と思って、少々がっかりさせられる。
 
 

 ところが、「本物の私」を伝える方法として内山節のローカリズム原論に書かれていたのは、「私はどんな関係の中で暮らしているのか」を可能な限り丁寧に伝えるという方法。

 そこで例えば、私の学生時代からの友人達とどんな関係の中で暮らしているかを紹介してみると、数ヶ月に1度ぐらいで集まり、食事会をし、酒を酌み交わし、語り合い、そして泊まっていく。また、草刈りをすると言えば、出かけて草を刈り、物置を片付けると言えば、片付けに来てくれるという具合の関係の中で暮らしている。
 「結い」とまではいかないかもしれないが、そんな関係である。

 と語れば、確かに端から見ても、かなりな私の「本質的な」部分は見えるのではないかと思う。

 また、日頃私が考え、「関わっている」「発達」の問題も、まさに関係(性)の中で論じられ、展開されていることです。このブログで以前(9月26日)に書きましたが、「障害」が障害でなくなる社会も、まさにそうしたお互いが、理解し合い、認め合い、育み合う「関係」にあるように思う。
 

 例えば、発達障害(ASD)のコミュニケーションの問題(障害)に関して、ToM仮説(心の理論)と言うのがあります。これは、コミュニケーションの障害は、相手の視点に立ったり、相手の感情の理解などが苦手であったりするとの仮説ですが、これに対しての反論もあります。

 それによれば、「他者の心を推論し合いながらコミュニケーションを行う状況において、すれ違いが生じることは」「そのすれ違いの原因を一方に押しつけるのは間違っている」なぜなら「すれ違いが起こっている場合、アスペルガー当事者が、定型発達の心理を見失うと同時に、定型発達者も同時にアスペルガーの方の心理を見失っている」はずであると言うことになる。

 つまり、コミュニケーションは相互理解であり、相互の関係性の中にあるのであって、一方がどうのこうのと言う問題ではないと言うことである。

 
 わたし自身、想定外の返答に、驚かされる事もあるが、丁寧に「それってどういうことなの?知りたいんだけど。」と聞いていくと納得がいくことが多い。自分の物差しで考えず、お互いがより深く聞き合い、理解し合うことが大事だと思う。
 更に付け加えれば、言葉という物それ自体が、「関係性」の中に存在するものであるし、「つう、かーの仲」と言うように、「関係」が深まれば深まるほど、より豊に、言葉を通してわかり合えるものであるように思われる。

とは言っても、言葉でしか伝え合えない部分も多い。発達障害はコミュニーション、社会性、想像の障害と言われている。
 

 カウンセリングルーム 希望の翼ではコミュニーションがうまくとれない方には、そのスキルトレーニングをしたりして、少しでもそのスキルを身につけて欲しいと願っている。
 
       

                                  引用した本は、
内山節の「ローカリズム原論」
発達心理学研究第24巻第4号
 
でした。