2014年1月27日月曜日

色覚の問題

  1月27日(月)の日経新聞に色覚の問題の記事がありました。色覚異常の有無についての検査は、現在では行われてはいないが、以前は各学校で行われていた。私自身も検査者として対応した経験もありました。
 また、実のところ、私自身に色覚の異常があり、赤緑色盲という診断を受けています。そのために理科大好きさんだったのに、私は文化系への進学を余儀なくされました。そして国語の教師になった次第です。国語の教師をして良かったとは思いましたし、これはこれでとても面白かった。けれども、やはり好きであることを捨てきれずに、アマチュア無線をしたり、気象予報士の試験に2回も挑戦したりもしました。
  しばらく前に、理科に一番近い文系として心理学者になった人のことが話題となった。彼もまた色覚に異常があったようです。もちろん私は学者と言うことでもないし、理科に一番近いからと言って心理学を学んだわけでもないのです。が、もちろんその考え方や、とらえ方が、自然科学的と言うことも私を引きつけたことも事実ではあります。

  話を日経の記事の方に戻しますと、色覚検査は、その結果次第では、その人の人生を大きく左右するものであることは確かです。現在は私たちの時代とは異なり、進路や就労にはさほどの支障はないようですが、やはり大きな影響を受けることは間違いないように思います。もちろん差別などあってはならないことは言うまでもないことですが。
  

  しかし、私がここで述べたいことは、自己理解です。日経にも書かれていたように、色覚の検査がないために、本人自身もそうした自分の特性についての理解がなされていないことがあるように思われます。むろん周囲の者もしかりではないかと思います。自分でも自覚していないし、周りは言ってもらわなければ、もちろん分かりようもない。
  更には、検査がないことで、私が懸念することは、社会の中にも、そうした色覚に問題を抱えている人がいることすら、もはや忘れ去られているようにさえ思われます。
  
  私は学生時代には、黒板に赤いチョークで書かれたりすると、更には、それに光が当たったりすると、もうお手上げで、字が見えなかった。日経によると、女性は少ないようですが、男性は20人に一人いるようです。つまり、クラスに一人や二人はいると言うことになります。貴方の周りにもいるわけでして。
  日経によれば、ある介護施設で、高齢者の顔色が分からない従業員がいて、それで眼科に行くように進められた方の例が書かれていました。こうした実社会に出て、初めて自分の特性に気がつく場合もの多々あるように思われます。
  自分の特性、この場合はあまりいい特性とは言えないかもしれないが、しかし、そのことを知ることで、その時は辛いけれども、そしてその時期も重要ではあるけれども、自らの特性に合った方向で進路の選択が出来るのではないかと、つい思うのです。それは周囲の者の、あるいは社会のあり方のためにも必要なことのなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

  色覚に問題がある私の経験の中にも「エ、!?」とか「何で!?」と思うような経験がいろいろあります。が、先の私のブログにも書きましたが、発達の問題を抱えている人の中にはもっともっと「エ、!?」とか「何で!?」と思うような経験があるように思われます。それは周囲の者にとっても同じようにあるのではと推測します。私の場合は人から教えてもらって、「へえーそんな色だったんだ」と思うことが多々あります。発達の問題を抱えている人の場合も、お互いが教え合って、初めて「そういうことか」と思うようなことが多々あるように思われます。

  しかし、私の場合もおそらく検査をやっていなければ、何ら自覚もなく、「何かおかしいな」と思いながら、違和感を感じながら、生活しているのかなと思います。それは色覚の問題に限らず、発達の問題を抱えている方々にも、同様だと思われます。
 もちろん、そのような問題があろうがなかろうが、結局は人はお互いが、わかり合うためには「語り合うなり」しないといけないことであるように思います。それが検査やアセスメントのを介在させるか否かの違いがあるかもしれませんが。
  だから、検査やアセスメントは、私の意見としてはやはり必要なように思うのですがいかがなのものでしょうか。
 
 

2014年1月26日日曜日

発達の問題とアセスメント

 自閉症スペクトラム障害の問題はよく言われるように①コミュニケーション②社会性③想像性 の問題ですが、実はその根底に、認知・言語、感覚・知覚の問題がある場合が多いようです。従って、情緒や対人関係にのみ焦点を当ててアプローチしようとしてもうまくいかない場合が多かったりします。
  例えば、学校なんかでは、生徒指導や生活指導とかで、問題を起こした児童生徒に対しての指導として、種々の取り組みが行われます。しかし、この指導が、なかなか通らないと言ったことがしばしばあったりします。勉強ができるのに、能力が高いのに、なぜと思われるケースもよく見受けられます。このような場合は、認知や感覚・知覚に問題がないかのアセスメントをする必要があるように思います。認知や感覚・知覚の過敏といった問題が、実は本人の困り感に直結している場合が多く、また、本人自身もこれを理解していないケースも多いのです。
 事例で考えてみますと、ある中学生の女子生徒で、不登校で、1週間も2週間もお風呂に入らないし、どうもおかしいと言うことでしたが、よくよく聞いてみると、過敏性があって、どうにも入浴は嫌だと言うことでした。一般的には、お風呂は本当に気持ちのいいもので、疲れもとれるし癒やされる。だから、なぜ入らないのだと言うことになるのですが、本人にとっては苦痛そのもののようでした。
 また、他の事例で考えますと、ある方は「念」の字を書き写すのに、何回も何回も見ながら、少しずつ書き足して、書き足しして、書き写しの課題を完成させました。ちなみにこの方は、全体視知覚の課題に関しては、満点でした。細かい細部の視知覚、細部視知覚に関してはかなり問題を抱えているようですが、全体視知覚に関しては、問題ないと言うことです。
 全体視知覚に問題があると、心の理論の獲得、つまり対人関係に問題を抱えたりするケースが多くなってきます。反対に、細部知覚に問題を抱えると、文字や数概念の形成が弱く、文字は読めても文章理解や算数、数学の学習に困難を示す場合が多いようです。
 もう少し付け加えて言いますと、同じようにアセスメントした方に、四十代の方が見えますが、この方は、全体知覚の問題を見事に外していました。対人関係のトラブルを抱え、悩んでおられます。おそらく、この方は長い間、このようなものの見方をしていたと思われます。私たちの情報の多くは、目と耳から獲得します。もちろん舌であったり、皮膚であったり鼻であったりもしますが。いずれにしても、そうした情報の入力に偏りがあったとすれば、必然的に、ものの見方も影響を受けると思われます。
 お子さん方の中には、集団から外れてしまい、活動ができないと言う問題がある方もいますが、そうした方には、聴覚の過敏さや集団遊びのルールが難しくて理解できないなどの問題を抱えていたり、刺激に振り回されやすいと言った問題があったりします。
 また、LDの方の特徴の、いわゆるだらしなさの問題は、運動協調障害による不器用さのためだったりする場合があります。児童生徒さんが、だらしない形で授業を受けていたりすると、当然先生方や親御さんは指導します。それは至極当たり前のことですし、他の生徒さんの手前もあります。ところが、本人にはそれがなかなかできなかったりします。「母が言っていることは分かる。でも、できない。それが悔しい。」と、文章に書いている方が見えました。こうした場合、先ほども書きましたが、「本人自身にもなぜなのか分からない」ケースも多いように思います。
 本人さんが分かっているつもり、分かるだろうと言うことで、私自身が過重な負担を強いてしまったケースもかなりあるように思います。誠に申し訳ないことです。
 まとめて言えば、やはり一人一人のアセスメントを丁寧に行う。また、一人一人の思いを丁寧に聞くと言うことが大切なんだと言うことを、日頃のカウンセリングを通して、つくづく思うところです。   

2014年1月4日土曜日

入学試験の記事です

パソコン使用 入試で配慮
 「大学全入」時代の到来で入学生が多様化し、知的な発達の遅れはないが、学習や行動面で困難がある発達障害の大学生が増えてきた。
 高校まで特別支援教育で一人ひとりに応じたサポートを受けてきた、こうした学生を、大学でどう支援するか。現状と課題を探った。
「画期的ケース」
 大学入試での配慮が、発達障害の学生の未来を開いたケースがある。
 今月6日、鳥取大(鳥取市)の演習室で行われた「地域政策学ゼミ2」の授業。「憲法9条は他国にとっても戦争抑止力になるのではないか」と男子学生が発言すると、議論が一気にヒートアップした。
 問題提起したのは、地域学部地域政策学科2年の斉藤真拓まひろさん(22)。斉藤さんは発達障害の一種、アスペルガー症候群だ。人間関係を築いたり、曖昧な表現を理解したりするのが苦手。聴覚過敏でもあり、雑音を減らす機能があるヘッドホンを授業中でも欠かせない。
 以前から数学が大好きだった。「数式の無駄のなさと機能美」にひかれた。特別支援学校高等部2年のとき、教師から「大学で勉強した方がいい」と助言を受けたのをきっかけに、進学を目指すように。しかし、受験の際に最大のネックとなったのは、「書字障害」があることだった。
 文章の読解力は人並み以上だが、文字を書くのに困難を伴う。「漢字は小学2年生レベル」と診断を受けたが、パソコンのワープロ機能を使えば、難しい文章でもすらすらと書ける。障害や病気を抱えた若者の進学を支援するプログラムに参加し、地元の同大のAO(アドミッション・オフィス)入試を受けることを決めた。2011年秋の試験では小論文が課されたが、パソコン使用を認めるよう診断書などを添えて申請した。
 パソコン使用の申請は、同大にとっても初めてのケースだった。ワープロの漢字変換機能を使えば誤字脱字が減り、他の受験生との不公平を生みかねない。一方で、障害への合理的配慮という側面に立てば、認めるべきだとの意見も出た。
 「例えば、手が動かせない障害がある受験生がいれば、代筆での受験もありえる。能力がある受験生への門戸を、手書きという方法にこだわって遮断してしまう方が問題が大きいとの結論に達した」。藤田安一・同学科長(61)はそう説明する。
 斉藤さんを支援した近藤武夫・東京大先端科学技術研究センター准教授(37)によると、入試でのパソコン使用は身体障害者で前例があるが、発達障害者に対して認められたのは初めてという。「手書きかワープロかという表現手法よりも、頭の中にある考えを論理的に表現できるかどうかをみた鳥取大学の判断は、発達障害者への合理的配慮を示したもので、画期的なケースだ」と評価する。
大学院目指す
 斉藤さんは小論文に加え、個人面接、集団討論でも上位の成績で合格。今は大学院進学を目指し、充実したキャンパスライフを送る。「日本では障害者の社会進出は、人権面ばかりから論じられてきた。統計学などを用いながら、経済効果という観点からその重要性を行政に働きかけられる研究者になりたい」
 斉藤さんの入試の際に試験官を務め、今は指導役となる相沢直子准教授(47)は「論理的思考力に優れ、いつも論点となるテーマを提示してくれる。学ぶ意欲も高く、他の学生にも刺激になっている」と話す。
診断ある学生 前年比394人増
 日本学生支援機構の調べでは、2012年5月1日現在で発達障害の診断がある大学生は1573人(前年比394人増)だった。大学から何らかの支援を受ける学生は、診断書がない者を含めると3508人(同590人増)。支援を申し出ていないケースも多いと推測されている。
 11年の大学入試センター試験から、発達障害の人も試験時間延長などの特別措置を申請できるようになったが、パソコン使用は含まれていない。また、16年4月からは「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」が施行され、障害学生への差別禁止と合理的配慮の提供が、国公立大では義務化、私立大では努力義務化されることになり、支援態勢整備が急がれている。

(2013年12月27日  読売新聞)

 発達に偏りがあったりしても、才能一杯の方々が見えます。いろいろな取り組みがどんどん行われるといいですね。

障害者のトラブル時に支援者育成 滋賀県での取り組み

障害者のトラブル時に支援者育成 湖国の福祉関係者ら
                                     京都新聞 2013年12月31 

 知的障害や発達障害がある人が、犯罪につながるトラブルを起こしたり、警察に逮捕された場合に福祉の支援体制を整える「トラブルシューター」の育成に滋賀県内の福祉関係者らが取り組んでいる。障害がある人たちは十分な意思疎通ができず、周りの障害への理解不足から誤解されるケースがあるといい「障害の特性に対する理解を広げたい」としている。

 障害者福祉施設「大津市立やまびこ総合支援センター」によると、障害がある人たちは障害の特性で、強いこだわりや周りとコミュニケーションがうまく取れないことがあるという。そのため、じっと人を見つめたり、いきなり人の物に触るなどしてしまい、警察から注意を受けたり、逮捕されることがあるという。
 

 トラブルシューターは、障害者の権利擁護活動をするNPO法人「PandA-J」(東京都)が考案。障害がある人たちがトラブルを起こしたり逮捕された時に、警察や被害者らに障害の特性を説明し、理解を求める。その後、トラブルや事件が起きないように、福祉支援体制や生活環境を整える。同NPOの養成セミナーを受講すれば修了証がもらえ、トラブルシューターと認定される。
 

 滋賀県内では2011年4月に社会福祉士や弁護士、臨床心理士ら十数人が集まって勉強会を発足させた。11月には大津市内で同NPOの養成セミナーを開き、約60人が参加。刑事手続きについて弁護士から説明を受け、精神科医からは罪を犯した障害者の特徴について話を聞いた。
 
 

 取り組みを広げているやまびこ総合支援センターの相談員越野緑さん(38)は「事案が起きた時にすぐに動けるネットワーク体制を作りたい。行政関係者や企業など障害者に関わりのある幅広い人たちに参加してほしい」と話している。

 
 このような取り組みが、各地に広がるといいですね。支援と言うより、お互いがお互いの関わり合いの中で、平等な立場で、人として。

私とは

「関係の総和」である。

確かにと、思った記述があったので、少し考えてみました。

 自己紹介をするときに普通は自分は何年生まれであるとか、どこそこに住んでいるとかを言ったりする。しかし、この場合「自分はどんな人間なのか」と言う本質までを語ってはいない。極めて表面的なことを言ったりしているに過ぎない。

 かといって、では「私の本質」とは何かと考えて見ると、実は、私が語ったりしている「私」は、「私が認識している私」に過ぎないし、その「私」が正確な「私」かどうか分からないと内山節は述べている。

 確かにその通りだと思う。周囲が見ている「自分」の評価は往々にして自分自身のそれと違ったりする。
 事実、他者の私の幼い頃への評価は、「私が認識している私」とはかなり異なっていることがあるる。小学生時代の同窓会に行って言われることは、「落ち着かない子やったわ」だ。私は、「へえ、そういうふうにみんな見ていたんだ」と思って、少々がっかりさせられる。
 
 

 ところが、「本物の私」を伝える方法として内山節のローカリズム原論に書かれていたのは、「私はどんな関係の中で暮らしているのか」を可能な限り丁寧に伝えるという方法。

 そこで例えば、私の学生時代からの友人達とどんな関係の中で暮らしているかを紹介してみると、数ヶ月に1度ぐらいで集まり、食事会をし、酒を酌み交わし、語り合い、そして泊まっていく。また、草刈りをすると言えば、出かけて草を刈り、物置を片付けると言えば、片付けに来てくれるという具合の関係の中で暮らしている。
 「結い」とまではいかないかもしれないが、そんな関係である。

 と語れば、確かに端から見ても、かなりな私の「本質的な」部分は見えるのではないかと思う。

 また、日頃私が考え、「関わっている」「発達」の問題も、まさに関係(性)の中で論じられ、展開されていることです。このブログで以前(9月26日)に書きましたが、「障害」が障害でなくなる社会も、まさにそうしたお互いが、理解し合い、認め合い、育み合う「関係」にあるように思う。
 

 例えば、発達障害(ASD)のコミュニケーションの問題(障害)に関して、ToM仮説(心の理論)と言うのがあります。これは、コミュニケーションの障害は、相手の視点に立ったり、相手の感情の理解などが苦手であったりするとの仮説ですが、これに対しての反論もあります。

 それによれば、「他者の心を推論し合いながらコミュニケーションを行う状況において、すれ違いが生じることは」「そのすれ違いの原因を一方に押しつけるのは間違っている」なぜなら「すれ違いが起こっている場合、アスペルガー当事者が、定型発達の心理を見失うと同時に、定型発達者も同時にアスペルガーの方の心理を見失っている」はずであると言うことになる。

 つまり、コミュニケーションは相互理解であり、相互の関係性の中にあるのであって、一方がどうのこうのと言う問題ではないと言うことである。

 
 わたし自身、想定外の返答に、驚かされる事もあるが、丁寧に「それってどういうことなの?知りたいんだけど。」と聞いていくと納得がいくことが多い。自分の物差しで考えず、お互いがより深く聞き合い、理解し合うことが大事だと思う。
 更に付け加えれば、言葉という物それ自体が、「関係性」の中に存在するものであるし、「つう、かーの仲」と言うように、「関係」が深まれば深まるほど、より豊に、言葉を通してわかり合えるものであるように思われる。

とは言っても、言葉でしか伝え合えない部分も多い。発達障害はコミュニーション、社会性、想像の障害と言われている。
 

 カウンセリングルーム 希望の翼ではコミュニーションがうまくとれない方には、そのスキルトレーニングをしたりして、少しでもそのスキルを身につけて欲しいと願っている。
 
       

                                  引用した本は、
内山節の「ローカリズム原論」
発達心理学研究第24巻第4号
 
でした。