2014年1月4日土曜日

私とは

「関係の総和」である。

確かにと、思った記述があったので、少し考えてみました。

 自己紹介をするときに普通は自分は何年生まれであるとか、どこそこに住んでいるとかを言ったりする。しかし、この場合「自分はどんな人間なのか」と言う本質までを語ってはいない。極めて表面的なことを言ったりしているに過ぎない。

 かといって、では「私の本質」とは何かと考えて見ると、実は、私が語ったりしている「私」は、「私が認識している私」に過ぎないし、その「私」が正確な「私」かどうか分からないと内山節は述べている。

 確かにその通りだと思う。周囲が見ている「自分」の評価は往々にして自分自身のそれと違ったりする。
 事実、他者の私の幼い頃への評価は、「私が認識している私」とはかなり異なっていることがあるる。小学生時代の同窓会に行って言われることは、「落ち着かない子やったわ」だ。私は、「へえ、そういうふうにみんな見ていたんだ」と思って、少々がっかりさせられる。
 
 

 ところが、「本物の私」を伝える方法として内山節のローカリズム原論に書かれていたのは、「私はどんな関係の中で暮らしているのか」を可能な限り丁寧に伝えるという方法。

 そこで例えば、私の学生時代からの友人達とどんな関係の中で暮らしているかを紹介してみると、数ヶ月に1度ぐらいで集まり、食事会をし、酒を酌み交わし、語り合い、そして泊まっていく。また、草刈りをすると言えば、出かけて草を刈り、物置を片付けると言えば、片付けに来てくれるという具合の関係の中で暮らしている。
 「結い」とまではいかないかもしれないが、そんな関係である。

 と語れば、確かに端から見ても、かなりな私の「本質的な」部分は見えるのではないかと思う。

 また、日頃私が考え、「関わっている」「発達」の問題も、まさに関係(性)の中で論じられ、展開されていることです。このブログで以前(9月26日)に書きましたが、「障害」が障害でなくなる社会も、まさにそうしたお互いが、理解し合い、認め合い、育み合う「関係」にあるように思う。
 

 例えば、発達障害(ASD)のコミュニケーションの問題(障害)に関して、ToM仮説(心の理論)と言うのがあります。これは、コミュニケーションの障害は、相手の視点に立ったり、相手の感情の理解などが苦手であったりするとの仮説ですが、これに対しての反論もあります。

 それによれば、「他者の心を推論し合いながらコミュニケーションを行う状況において、すれ違いが生じることは」「そのすれ違いの原因を一方に押しつけるのは間違っている」なぜなら「すれ違いが起こっている場合、アスペルガー当事者が、定型発達の心理を見失うと同時に、定型発達者も同時にアスペルガーの方の心理を見失っている」はずであると言うことになる。

 つまり、コミュニケーションは相互理解であり、相互の関係性の中にあるのであって、一方がどうのこうのと言う問題ではないと言うことである。

 
 わたし自身、想定外の返答に、驚かされる事もあるが、丁寧に「それってどういうことなの?知りたいんだけど。」と聞いていくと納得がいくことが多い。自分の物差しで考えず、お互いがより深く聞き合い、理解し合うことが大事だと思う。
 更に付け加えれば、言葉という物それ自体が、「関係性」の中に存在するものであるし、「つう、かーの仲」と言うように、「関係」が深まれば深まるほど、より豊に、言葉を通してわかり合えるものであるように思われる。

とは言っても、言葉でしか伝え合えない部分も多い。発達障害はコミュニーション、社会性、想像の障害と言われている。
 

 カウンセリングルーム 希望の翼ではコミュニーションがうまくとれない方には、そのスキルトレーニングをしたりして、少しでもそのスキルを身につけて欲しいと願っている。
 
       

                                  引用した本は、
内山節の「ローカリズム原論」
発達心理学研究第24巻第4号
 
でした。
                      

 

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